自分なりに生きた証を残すブログ

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世界一周・生き方・英語・国内車中泊についての記録です

バスキング日記 第0章 手を楽器にする特技

 バスキングという言葉をご存じだろうか。いわゆる路上ライブである。バスキングをしている人のことをバスカーと呼ぶらしい。日本でも大きな都市の駅前や繁華街など、人の集まるところでギターやピアノを演奏したり、大道芸を披露している人を見たことがあるのではないかと思う。実は、日本よりもアメリカやヨーロッパなど、海外の方がバスキングは盛んにおこなわれている。いわゆる本場である。日本と違いチップ文化があるため、1時間のバスキングで数万円~数十万円ものお金を稼ぐトップバスカーも存在する。この日記は、そんな海外でのバスキングに、地味でシュールで無意味に思えるような、しかし、ほんの少しだけすごい特技を持った一般人が挑戦する記録である。長い記事になることを先にお詫びしておく。

 

 その特技のきっかけは、小学4年生のころだった。僕が通っていたのは、どこにでもあるような公立の小学校だったが、当時はまだ土曜日も登校する必要があり、半日の授業があった。そんな土曜日の心地よい晴れた昼ごろ、下校前のホームルームで先生を待っているときのことだった。みんなが午後は何して遊ぼうかと浮足立っているとき、「ピーッ!」っとクラス中にホイッスルのような音が響き渡った。クラスのお調子者、ドーチン君のしわざだった。彼はニコニコしながら、またピーっと音を出した。僕は音が鳴る方へ駆け寄っていく。ドーチン君は、ホイッスルを吹いているわけではなく、両手を合わせて、そこに息を吹き込んで音を出していた。バレーボールで、アンダーハンドパスをするときの組み方である。「すごいすごい!」僕は無邪気に笑いながら、どうやって音を出しているのかドーチン君に聞いた。これが、のちに長い付き合いとなる『手笛』との出会いである。その後、僕の手笛は約20年の時間をかけて少しずつ進化していく。

 

 小学6年生のころ。僕の手笛は、いつの間にかアンダーハンドパスから、おにぎりを握るような手の組み方に進化していた。この方が、手を組んですぐに音を出すことができると気づいたのである。おにぎりスタイルは、フクロウの鳴き声のように低い「ホー、ホー」という音を出すことができた。夏休みに、友達や友達の家族でキャンプに行ったとき、夜の肝試しでフクロウのまねをして手笛を吹き、友達を怖がらせた。暗い森の中での「ホー、ホー」という音は、たしかに少し不気味だったかもしれない・・。

 

 僕の手笛が大きく進化を遂げたのは、高校3年生のころだった。大学受験を控え、学校・家・塾の往復をしていた時期である。フクロウの鳴きまねができたからといって、特に何かあるわけではなく、手笛の存在すら忘れかけていたが、家で勉強の息抜きに何気なく「ホー、ホー」と吹いたときに違和感に気づいた。音程が高いのである。いつものフクロウが、ドレミの「ド」で鳴いているとすれば、今日のフクロウはドレミの「ミ」で鳴いているのである。何度か手をにぎり直すと、フクロウはいつもの「ド」の鳴き声に戻った。衝撃だった。手笛と出会って約8年の月日が過ぎていたが、僕はこのとき初めて、手笛は音階が作れると気づいたのである。それから、親フクロウ・子フクロウを経由して、僕は少しずつ音程の変え方を会得していくことになる。

 

 大学生のころには2つの出来事があった。1つはハンドフルートのプロ奏者、森光弘さんの登場である。当時住んでいた学生寮にようやく有線LANが設置され、ストレスなくGoogle検索などができるようになった頃である。ふと手笛について検索したときに、全国区のテレビ番組で手笛を披露している森さんを見つけた。彼は若く、僕とほとんど同い年に見えた。彼はおにぎりスタイルではなく、お祈りをするように手を組んで音を出しており、そのスタイルのことを「ハンドフルート」と呼んでいた。初めてそれを見たとき僕は「先を越された」と思い悔しがった。しかし、詳しく調べていくうちに、その絶望的な差を思い知ることになる。彼は両親と兄弟が音楽家の家庭に育ち、東京の音大を卒業し、ピアノ奏者とユニットを組んで活動していたのだ。当然、音感は優れており、僕の出せない高音域の綺麗な音も完璧に操っていた。単純に手笛の技術面でも、彼は圧倒的に遠くにいた。身の程を思い知るとはこのことである。

 

 もう1つ出来事は、ライブでの手笛の披露である。恥ずかしながら僕は怠惰な学生であり2度の留年をしていたのだが、大学時代の最後に新しい趣味を見つけようと思い、2年間だけ軽音サークルに入ったのがきっかけとなった。軽音サークルでは部内でギター・ベース・ドラムの担当を集め、バンドを組んで定期的に部内ライブで演奏するのだが、最後に突飛なことがしたいと考え、ギターと手笛のユニットを結成したのである。ユニット名は「エッグノッグ」だった。イギリスの甘い卵酒の名前だが、当時は勢いだけで付けたので深い意味はなかった。構成は、アコースティックギター担当が適当にお洒落なメロディーを弾き、後から重ねるように手笛を吹くというものだった。当時の僕の手笛は、フクロウを起点に1オクターブ程度の音階を操れるというものだったが、果敢にもアドリブで挑戦した。僕はこのライブでの演奏後のことを今でも鮮明に覚えている。照明を切った暗いライブ会場で、演奏を終えた一瞬の沈黙ののち、一斉に拍手が沸き起こった。演奏を聴いていたのは部内の学生30人ほどだったが、「おー!すげー!」っと声を出して拍手をし、それぞれが手笛を吹こうと真似を始めたのである。手笛でこんなにすごいと言われたのは生まれて初めてである。その後も控室に部員が次々と訪れ、どうやって音を出しているのか教えてほしいと言われた。一つの夢が叶った瞬間だった。それから数日間、部内で手笛ブームが起きたが、ほどなく収まった。今更だが手笛は感覚的な要素が多く、かなり難しいのである。森さんのハンドフルートを真似てみたが、うまく音程を変えられず、今の僕はおにぎりスタイルの手笛しか吹けない。

 

 月日は流れ、僕は30歳となった。平凡な会社員として多忙な日々を送っていたが、世界一周の旅に出ると決めて、調べ物をしているときに、僕は福岡の路上でライブをしているハンドフルート奏者、なかしま拓君の情報を見つけた。彼は10歳下の大学生だった。僕は同じ特技を持つ人が近くにいることに嬉しくなり、彼に連絡を取り、すぐに会いに行った。彼は自らをプロと名乗り、頻繁に路上ライブを行っているようだった。彼の技術は素晴らしかった。そしてかなりのチップを稼いでいた。森さんには及ばないように見えたが、綺麗な高音域の安定感は抜群だった。僕は大学時代のライブ以来、手笛を披露していなかったが、世界一周中に1つの経験として、手笛でバスキングをするのも面白いんじゃないかと思うようになっていた。目の前の彼が、それが可能であることを証明してくれているようにも見えた。

 

そして、若者というには少し歳を取りすぎている僕の、小さな挑戦が始まった

 

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