自分なりに生きた証を残すブログ

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世界一周・生き方・英語・国内車中泊についての記録です

バスキング日記 第2章 シンガポールのネオンが光る街中で

 シンガポール。東南アジアの真珠、東南アジアの奇跡といわれ、高度に発展した先進国である。様々な人種の人々が入り混じり、僕が学生のころには『人種のサラダボウル』と習った記憶さえある。高層ビルが立ち並び、都市内には地下鉄網が張り巡らされている。もちろん物価は高く、日本とさほど変わらない。そんな地で、周囲をキョロキョロと観察しながら足早に歩き回っている日本人がいる。僕である。もう日が暮れるというのに、宿へ戻る気配はなく、アテもなく歩き続けている。一体どこへ向かっているのだろうか。それは本人も分かっていない。

 

 僕は焦っていた。シンガポールの滞在は3日間のみに決めており、明日はマレーシアに移動するため、バスキングをするなら2日目の今日しかチャンスがないからだ。もちろん、事前にリサーチはしていた。チャイナタウンの連絡通路で演奏しようと思っていたのだ。手笛は音量が小さいため、広い場所では音が全く聞こえなくなる。チャイナタウンの連絡通路は、屋根があるので音が反響し、狭いので人が近くを通るスポットなのだ。ただ、目的の場所では午前中からずっと、車いすのおばあさんが歌を歌っていた。おばあさんはバスキングというより物乞いにしか見えなかった。英語も通じず、それは夜まで終わることがなかった。考えが甘かった。僕はバスキングが出来そうな場所を探してアテもなく彷徨い始めた。頭の中では、フィリピンで留学生たちに「物価の高い国に行ったらバスキングするんだ」と語っていた過去の自分の声がこだましていた。

 

 何時間歩いただろうか。すでに夜8時をすぎており、周囲は暗い。僕は未だにバスキングをする場所を見つけられずにいた。そもそも、日本でも一度もバスキングをしたことがなく、ただでさえシュールで前例のない特技でバスキングをしようとしているのだ。公道のルールもよく分からないし、そんなに簡単に実行できる場所を見つけられるはずがない。音の響きやすい屋内がいいが、ショッピングモールで演奏するわけにもいかず、だからといって都合のいいトンネルも見つからず、ただただ焦りだけが増していった。初めてのバスキングへの不安もあり、宿に戻ろうと何度も思った。そもそも、バスキングをしなくても旅は続けられるし、無理に頑張る必要はない。そう何度も考えた。そんな時、目の前に高島屋のビルが現れた。シンガポールの真ん中に進出している日本企業の看板を見て、少し安心すると同時に、僕は決心した。やらない理由を考えても仕方ない。やるしかないと。

 

 僕は高島屋の前の、歩道と車道の間にある植込みの前で用意を始めた。歩道はかなり広く、人通りもあった。近くのスイーツ店の音楽も少し聞こえる場所だった。車道も広く8車線くらいあり、バスが大きな音を立てて走っていた。手笛をする場所としては最悪の環境だった。用意はすぐに終わった。手笛の音を補助する小さなスピーカーを首に下げ、ヘッドセットのマイクを調整し、足元にHAND WHISLING I'm traveling around the world. from Japanという文字を書いた紙と、裏返した帽子を置いた。目の前を歩いている人は多いが、こちらに寄ってくる人は一人もいない。不安と緊張で胸が張り裂けそうだった。僕は深呼吸をしてから手を組み、息を吹き込んだ。あれ?音が聞こえない? 僕は頭が真っ白になった。

 

 少し吹いてから気づいた。雑踏の音にかき消されて、手笛の音は周囲2~3mくらいしか聞こえていないようだった。スピーカーも性能が低く、特定の音しか大きく拡散しなかった。まずい、これじゃ本当にただのおかしい人だ。たまにこちらをチラリと見てくる人もいたが、誰も近寄ってこなかった。日本人っぽい人も何人か僕をチラ見して通り過ぎたが、自分が日本人であることが本当に申し訳なく思えてきた。世間は冷たかった。ジブリやディズニーを中心に吹いていたが、おそらく誰にも伝わっていなかっただろうと思う。手汗で音も安定していなかった。心が折れそうだった。というか既に折れていた。僕は気力だけで手笛を吹き続け、わざと体を揺らしたり、ステップを踏んだりして周囲にアピールを続けた。正直、今すぐにでも帰りたかった。

 

 1時間ほど経ったとき、それは起こった。本当に一瞬のできごとだった。目の前を通りすぎた東洋系の若い女性が、硬貨を一枚、帽子に入れてくれたのだ。すれ違いざまだったので、しっかりと音を聞いてくれたかは分からない。顔を上げずに小走りで去ってしまったので、お礼を言うこともできなかった。刹那だったが、今でも鮮明に覚えている。物乞いに近かったかもしれないが、これが、初めてバスキングでチップをもらった瞬間だった。泣きそうだった。

 

 その後も懸命にシュールな演奏を続けていたが、誰も足を止める人はいなかった。そして、突然雨が降ってきた。僕は「雨だから演奏が続けられないなー」という仕草を取りながらも、内心かなりホッとしていた。救いの雨だった。地獄の時間が終わったのだ。急いでスピーカーと帽子を片づけ、ビルの軒下に入った。時刻は夜の22時を回っていた。心はズタボロだった。2時間もの間、シュールな演奏を続けていたのだ。女性が入れてくれたのは50セント硬貨だった。日本円だと40円くらいだ。僕は硬貨を握りしめ、少し泣いた。こうして、シンガポールの地で、僕は初めての手笛バスキングを終えた。どう考えても失敗だった。

 

自分という存在がいかにちっぽけか、身に染みて感じた経験となった。

 

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